350億円で上場し、一時は企業価値1兆円を超えた日本M&Aセンター。創業者・分林保弘氏が、学生時代の貨物船米国遠征で得た人生観、会計事務所との出会い、37歳での起業、全国50拠点同時立ち上げ、そして無借金経営を貫いた経営哲学までを語る。
350億円で上場し、最高時には企業価値1兆円を超えたM&A仲介業界の最大手・日本M&Aセンター。1991年に同社をゼロから立ち上げた創業者・分林保弘氏(現名誉会長)が、学生時代から起業、上場、そして現在に至るまでの経営人生をM&A CAMPに語った。表参道にある自宅兼能舞台で行われたインタビューでは、能楽師の家に生まれた少年が、いかにして全国規模のM&Aネットワークを築き上げたのか、その思想と仕組み作りの源流が浮かび上がる。
分林氏は京都・五条の能楽師の家に生まれた。父も能楽を生業とし、兄も後に家業を継いだ。日曜ごとに父に混じって能の舞台に上がる「子方(こかた)」を務めながら、小学校では給食後に教師が読み聞かせる山本有三『路傍の石』やヴィクトル・ユゴー『レ・ミゼラブル』に親しんだ。
社会問題への関心は早熟で、小学校高学年から毎日新聞を読み、「太平洋戦争の責任は日本側にあるかアメリカ側にあるか」といったディスカッションでは日本側に立つ論者として議論したという。朝鮮動乱についての作文を書いたのもこの頃だ。
中学までは体が弱かったが、高校で山岳部に入って体力をつける。2年で部長となり、夏合宿・冬合宿の企画を一手に担うようになった。「企画をするのが大好きだった」と振り返る。
大学では一度探検部に入ったが馴染めず、能楽部へ移った。中学・高校で能から離れていた分林氏は同期15人と「能楽師の息子ながら、玄人ではなく一からやり直す」感覚で取り組んだ。副部長としてパンフレットを制作した際には、京都の街を二人一組で回って広告を集め、前年の倍の出稿を取りつけたという。
大学3年の文化祭が終わった頃、東京オリンピックを観て「アメリカを見てみたい」と思い立つ。当時の渡航費は20万円、1日のアルバイト代が500円という時代である。学生の身では到底及ばない。
そこで思いついたのが、能の公演を引き受けてくれる米国の大学を募るという企画だった。同期の友人を誘い、英文の依頼状を演劇学のある大学約60校に送付。およそ6割の大学から返答があり、30数校から招聘の意思が示された。新聞・テレビ・ラジオにも取り上げられ、飛行機ではなく貨物船で渡航。大学4年の9月に名古屋を出発し、約2週間かけてアメリカに到着した。
現地ではグレイハウンドバスの「99日間99ドル」券を使い、各大学のドミトリーに1週間ずつ滞在しながら能を披露し、講演料を得て移動した。カナダから米国本土を縦断し、メキシコまで南下するおよそ3ヶ月の旅となった。
メキシコのポートランドから日本へ向かう帰路の貨物船。テレビもビデオもない時代、夜は星しか見るものがない。
「毎日星を見ていると、自分の人生はせいぜい100年。でも宇宙の星はどれを取っても1万光年先のものを見ている。僕は一瞬しか生きていないんだなと痛感した。一瞬しか生きていないなら、やりたいことを全部やろうと」
この体感が、のちの起業家としての行動原理になった。
帰国後に就職したのは、当時イタリア発で世界に約8万人の社員を擁したオリベッティ。日本進出から5年目の同社で、コンピュータ販売の営業を担当した。大阪配属を経て京都へ転勤、優秀な上司に恵まれてトップクラスの営業成績を残し、5年ほどで営業課長に推薦される。
転機となったのは、会計事務所向けにコンピュータを販売するプロジェクトだった。新卒部下を率いて会計事務所一本に絞った営業を展開すると、よく売れた。何より顧客である税理士たちの人柄と知性に惹かれ、「会計事務所と一生仕事をしたい」と心を決める。名古屋支店長への推薦も「会計事務所から離れたくない」と断った。
会計事務所マネージャーとしては、現状分析・問題点把握・目標達成支援までを一気通貫で行う総額1000万円超のシステムを開発・販売。北海道から沖縄まで全国80箇所で導入が進んだ。
37歳のとき、システム開発を担っていたパートナーと共に独立して会社を設立。東京と大阪で毎月勉強会を開き、全国の有力税理士550名が会員に名を連ねた。米国会計事務所への視察ツアーを呼びかけると第1回から200名が集まったという。
そんなある日、会員の税理士から「最近、後継者がいない会社が増えてきた。M&Aをやってみませんか」と持ちかけられる。M&Aという言葉を聞いたこともなかった分林氏だが、好奇心が勝った。
「面白いですね、じゃあやりましょう」
1991年4月25日、日本M&Aセンターを別会社として創業。新宿の事務所に集めた社員は8人、全員がM&A未経験で平均年齢20代という布陣だった。M&Aの本を書店で買い集めても、当時は全部で15冊程度しか存在しなかったという。
創業からわずか3ヶ月後の7月、プリンスホテルで300名規模の発会式を開催。ゲストスピーカーには当時オリックス(旧オリエントリース)の宮内義彦氏を招いた。宮内氏が語ったB2BからB2Cへの転換における社名変更とM&A戦略は、分林氏に深い示唆を与えた。
半年後の1992年3月、分林氏は大胆な施策を打つ。日経新聞に「あなたの会社の後継者をお探しします」という一面広告を出稿。同時に、会員税理士のネットワークを活かして、北海道M&Aセンターから沖縄M&Aセンターまで全国約50社を同時に立ち上げ、合わせて約100社の出資ネットワークを構築した。出資にはオリックスや東京海上日動(当時の安田火災/日動火災系)に加え、第二電電(現KDDI)創業者ら個人も加わったという。
広告を出した翌週から1週間で問い合わせは400件。買いたい・売りたい・興味があるという声が殺到し、創業1年目から本格的な事業として立ち上がった。
2年目に売上は約1億円、経常利益約8000万円。資本金1億5000万円に対し10%の配当を10年続けるという経営方針を掲げ、有言実行する。
上場計画については、当初「経常利益5億円が必要」と見積もり4〜5年計画で進めた。だが1年目で2.5億円、2年目で4.5億円、3年目で7.5億円と急成長し、証券会社の打診により予定を前倒しして上場。社員からの「気を緩めず一部に行きましょう」という声に応え、わずか1年2ヶ月後には東証一部へ昇格した。
上場時の時価総額は約350億円。最高時には1兆円を超えた。創業以来一度も赤字を出さず、銀行借入もゼロ。配当は2年目から連続で続けてきた。「いわゆる若手経営者が悩む資金調達という発想自体が、うちには無かった」と分林氏は語る。
分林氏が経営の根幹に据えてきたのは三つの言葉だ。
ひとつ目は最澄の「自利利他」。TKC創業者・飯塚毅氏から学んだ言葉だという。「自分が売るのではなく、これを使ってお客様が成功してもらう。結果が自分の利益になって返ってくる」。1000万円のシステム販売でも、4〜5時間かけて説得することがあったが、相手にとって本当に良いと信じていたから提案できたと語る。
二つ目は「仕事は使命感でやるもの」。ドラッカー塾で1年間学んだ際に得た指針で、後継者がいない会社と成長したい買い手をいかにつなぐかという社会的使命を核に据えた。
三つ目は「仕事は正しいことをやる」。世界最大級だった会計事務所アーサー・アンダーセンが不正会計で一夜にして消滅した史実を引き合いに、「歴史が証明している」と説く。新入社員研修ではこの三つに加え、「明日から日経新聞を読まないなら出社しなくていい」と伝えるという。経済人としての常識なくしてM&Aを語ることはできない、というのが分林氏の哲学だ。
大江健三郎ならぬ大江某氏(インタビューでは「我の系は仕組み作りや」との発言を著書命名の由来として紹介)が看破した通り、分林氏は早期から仕組み化を重視した。社員報酬は基本給に加え、5000万円〜1億円規模のインセンティブも設計上可能とし、社員一人ひとりが経営者マインドを持てる構造を作った。
息子に継がせるのではなく、できる人がやればいい——禅の「持って家とす(650年前の達磨が説いた言葉として紹介)」を引きながら、ファミリー経営を否定し、適任者に役職を任せる仕組みを最初から築いてきた。三宅卓氏(現社長)は創業期から共に走り続けた盟友であり、いまも並走している。
82歳になった現在も、分林氏は能の海外公演をプロデュースしている。前回はブラジル、今回はヨーロッパ。資金が不足する分は私財から出すという。オリベッティ創業者の「企業は利益の追求とともに社会的・文化的貢献をしなければならない」という言葉を150年経った今も体現している。
表参道の自宅は6軒目。建物を愛し、能舞台を併設したこの家では音楽会やミニオペラも開かれる。能舞台に使う一本一本の木をゴルフ場で見比べるほどのこだわりだ。
エネルギーの源を問われた分林氏は、貨物船で見た星空に話を戻した。
「人間は一瞬しか生きられない。だから迷ったらやることにしている。考えたことが全部実現する。集中したら絶対に実現できると思う」
死ぬのが怖いと感じることはないという。やりたいことを、全部やる——一瞬の人生を全力で使い切るというシンプルな信念が、ゼロから企業価値1兆円超の会社を築いた創業者を、いまも前に進ませている。
※本記事はYouTube動画を元に編集部で再構成したものです


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