元NTTデータ・リクルート・ライブドア・LINEを渡り歩き、現在はアクティビスト投資家として活動する田端信太郎氏。石川県小松市での少年時代から、深夜ラジオ・インターネット黎明期との出会い、R25立ち上げの裏側、そしてX(旧Twitter)への向き合い方まで、その半生と思考を語った。
田端信太郎氏は1976年、石川県小松市に生まれた。当時の石川県では民放テレビ局がわずか2局という時代。情報やコンテンツに飢えていた田端氏が夢中になったのは深夜ラジオだった。
「ニッポン放送の『オールナイトニッポン』2部は地方までネットされていなかった。だから夜のあいだだけ電波が遠くまで届く中波の特性を利用して、アナログラジオをうまく合わせて聞いていた」。電気グルーヴなどを聞きながら、午前4時を過ぎると夜明けとともに電波が弱くなっていく。「魔法が解けるかぼちゃの馬車のようだった」と田端氏は回想する。
金沢の宇都宮書店までは、小松から自転車で片道3時間半かけて通った。「品揃えが圧倒的に違う」というのが理由だ。情報やコンテンツに対する強烈なハングリー精神は、すでにこの頃から育まれていた。
進学先として慶應義塾大学を選んだ理由は、極めてロジカルだった。
「親から『東大か早慶、せいぜい一橋文系くらいに入れるなら東京に行ってもよい』と言われた。慶應の世界史は近代以降しか出ない。試験範囲が狭いから、これがちょうどいいと思って一番楽して受かろうと思った」
後期日程で東大も受験し、思いのほかセンター試験の足切りも突破。手応えもあったが結果は不合格。それでも東京に出る選択肢として慶應を選んだ判断は、今振り返っても本人にとって納得感がある。
大学生になった1995年頃、田端氏は本格的にインターネットに触れる。当時はダイヤルアップ接続の時代。NTTの「テレホーダイ」(深夜23時〜朝8時の特定番号への通話定額サービス)を使い、徹夜でネットに没頭した結果、留年も経験した。
やがてWebサイト制作のアルバイトを始めると、1ページ作るだけで5万〜10万円。多い月は月収80万円ほどになった。「新卒の初任給17万8000円とか、なんなんこれと思っていた」。秋葉原で自作PCを組み、ApacheをインストールしてLAN内でサーバーを立てる──そんな実験を学生時代から繰り返していた。
「テレビよりラジオが好きで、新聞より雑誌が好き。当時のマスメディアの中で一番パーソナルなものが好きだった。ネットが出てきた瞬間、圧倒的によりパーソナルなおもちゃを見つけたと思った」
大学卒業後はNTTデータに入社。短い在籍期間ながら、上司が役員に対しても堂々と正論を言う社風に「社会人ってこんなふうに上司に言っていいのか」と驚いたという。
しかし2年弱で退職。当時赤字続きだったNTV事業を横目に「やっぱりネットビジネスをやらなければダメだ」と感じ、日経新聞日曜版の広告で見つけたリクルートの「次世代事業開発室」(コーポレートベンチャーキャピタル)に応募し、採用された。
そこから生まれたのが、無料雑誌『R25』である。社内コンテストに3回チャレンジしてようやく事業化が決定。雑誌の広告単価をページ1000万円という破格の水準に引き上げ、有料雑誌のビジネスモデルを覆す挑戦だった。
立ち上げの裏では、ある担当役員が電通とリクルート両方に「決まりました」と嘘をつき、デッドロックを突破するという離れ業も。「ゴルフ大好きで普段から『俺は仕事はせん。責任だけ取るのが俺の唯一の仕事や』と言っていた。本当にしびれた」と田端氏は語る。
『R25』時代に当時のメディア事業部担当役員だった峯岸真澄氏(後のリクルート社長)から受けた指導は、田端氏の経営観を大きく形づくった。
「目の前の小さな1ヶ月分の営業目標を外しているやつが、四半期のクオータで取り返すために営業マンを増やしてくれと言ったところで、ダメに決まっているじゃないか。小さな約束を守れていない奴が大きな約束を守れるわけがない」
また、車内吊り広告とラックの装飾をセット販売する施策に対しても「お前らはラーメン屋を開いたんじゃないのか。ラーメンの売れ行きが悪いからって、なんでデザートのパティシエが作っているケーキを勝手にセットにしているんだ」と詰められたという。土俵際の正論で詰めてくる峯岸氏の姿勢を、田端氏は「すごいな、土性論しか言わない」と振り返る。
リクルートの後はライブドアへ移り、ライブドア事件を経験。執行役員兼メディア事業部長として、Amebaに次々と引き抜かれる芸能人ブロガーへの対抗策を模索する中で、自らもブログを書き始めた。やがて2008年頃、Twitterに出会う。
「最初はブログのアクセスを増やすツールとして良いと思ったが、反応がすぐ返ってくるのが面白かった」。ガラケー全盛期の中、iPhone 3GSが登場した瞬間「これだ、これは普通のネットだ」と直感。「サッカー選手だった自分にとって、それまでのモバイル業界はラグビーに見えていた。スマートフォンで急に手を使ってはいけないラグビーになり、こっちのもんやと思った」と語る。
2011年の東日本大震災を機にTwitterの公共性が一気に高まり、田端氏自身も避難情報の拡散などに奔走。妻が地下鉄で隣の人のスマホに自分のアカウントが映っているのを目撃したという逸話もある。
LINEの上級執行役員時代には、SNSでの発言がきっかけでクライアントから抗議を受けたこともある。「批判するのは事実だから当然だが、すいませんでしたと言うのは『既存クライアントなのに、紙のカタログから今時のスマホ時代へのシフトに導く提案をできていなかったこと』に対してです。ぜひこれをビジネスチャンスだと思って提案させてください」と真顔で返したところ、相手の代理店から「田端さんが来るとややこしそうなので、僕らで収めておきます」とうやむやにされたという。
田端氏にとってX(旧Twitter)は何か。「オーナーのイーロン・マスク自身が『バトルフィールドだ』と言っている。それが嫌なら使わなければいい、鍵をかければいい」と一貫した姿勢を見せる。
ただし、議論が成立しない孤独感もある。「最近、自分を打ち返してくれる人が少なくなってきた。映画『シザーハンズ』みたいだと思うことがある。明らかに俺は議論したかったのに、相手が殴り合えるレベルじゃない。実は若干悲しい」
プロレスに観客が必要なように、Xという公開の場でディベートを楽しむこと──それが田端氏のスタイルだ。一方で、宴会やパーティーなど対面の場では、「そこまでぶち壊すようなことは言わない」とも明かす。
2026年10月で50歳を迎える田端氏に対し、収録の最後でラジオのホストから提案が出された。「YouTubeに全振りするためにXを1年間お休みしてみませんか」。
田端氏自身、YouTubeへの手応えを近年強めているという。「Twitterは長くやりすぎて、もう中毒だからやっている。YouTubeに映っている自分のほうが自分らしいと思えるようになったのは、ここ2、3年。Twitterより楽しい部分もある」
田端氏は「とりあえず1ヶ月くらいやめてみるかな」と前向きに応じた。クリエイターとしての言葉を裏垢で愚痴として消費するのではなく、エネルギーを溜めて作品にぶつける──そんな発想とも通じる、人生後半戦に向けた新たな実験となるかもしれない。
※本記事はYouTube動画を元に編集部で再構成したものです


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