競争に勝てば劣等感は消えるのか。社会学者・加藤諦三氏が、ギリシャの雄弁家デモステネスやオリンピックメダリスト、東大エリート官僚の事例を引きながら、成功者がなぜうつ病や自殺に追い込まれるのかを語る。
他人と比べることで一時的な優越感は得られるかもしれない。しかし、それは決して幸福にはつながらない――社会学者・加藤諦三氏は、競争社会に晒された人々が抱える本質的な問題をそう指摘する。
加藤氏が引き合いに出すのは、ギリシャ・ローマ時代の雄弁家デモステネスのエピソードだ。
「デモステネスはRの発音ができなかった。それでものすごい努力をして、海に行って発生練習をしたり、山を駆けて発生練習をしたりして、最後はギリシャ・ローマ時代最大の雄弁家と言われるところまで上り詰めた人なんです」
弁論が価値の頂点とされた時代に、誰よりも努力して頂上に立った人物。しかし、その彼は最終的に自殺している。マケドニア撃退の演説が成功しなかったことが直接の引き金だった。
「僕らが若い頃は『諸君、デモステネスを見習って努力しろ』と言われた。けれどもこれは、努力して不幸になれということなんですよ」
加藤氏が繰り返し強調するのは、競争の中での努力は劣等感を解消しないという事実だ。
「競争社会に晒されている人たちは、優越すれば劣等感がなくなると思っている。これは全くの間違いで、優越しようが優越できなかろうが、同じフィールドの上をぐるぐる回っているだけなんです」
その根拠として加藤氏が挙げるのが、心理学者カレン・ホーナイの理論だ。「人間の行動は、背後にある動機となった考え方を強化する」――つまり、劣等感を動機として努力すれば、結果が成功であろうが失敗であろうが、劣等感そのものはむしろ深まっていく。
セブングループのトップは世界的な富豪として知られるが、「笑ったことがない、苦しみだけだ」と語ったという。どれほど富や名声を得ても、競争の土俵に立ち続ける限り苦しみから逃れられないのだ。
加藤氏はもう一つ、痛ましい例を挙げる。メキシコオリンピックで銅メダルを獲得した日本のマラソン選手の話だ。
「日本でも有名になった彼は、最終的に自殺してしまった。最後にどういう言葉を残したかというと、『お父さん、お母さん、もう僕は走れません』と書いて死んでいったんです」
走ることがすべてだと思い込んで生きてきた結果、オリンピックでメダルを取ってもなお劣等感は深刻化していった。「マラソンをすること以外には何もしないで、生まれてからマラソンだけで生きて、最後は苦しみだけ」――それが競争社会の帰結だと加藤氏は語る。
故郷では今も記念館が建てられているという皮肉。彼自身は「走れないこと=人間でなくなること」と信じたまま亡くなっていったのだ。
同じ構造は、日本のエリートコースにも当てはまる。加藤氏が早稲田大学で教鞭をとっていた頃、ゼミの学生が官僚として就職した当時の話として、衝撃的な事実を明かす。
「官僚の死亡原因は、1位が癌、2位が自殺だった」
小学校から受験エリートとして駆け抜け、東大に入り、さらにその中でエリートになって公務員試験に合格して財務省などに入る。そこでまた競争が始まり、些細な失敗で自殺に追い込まれていく。
「こちらから見れば些細な失敗だけれども、それで官僚をやめさせられるわけでもないし、給料が下がるわけでも年金がなくなるわけでもない。けれども、それ以外考えられないから、ちょっと失敗して『自分は人間じゃなくなった』と思ってしまう」
エリートコースを歩んできた人ほど、「俺たちは人間で、それ以外は人間じゃない」という価値観に縛られてしまう。亀なのに、うさぎとして育てられてしまうようなものだ。
ではどうすれば、この苦しみのループから抜け出せるのか。加藤氏の答えは明確だ。
「視野を広げる以外にないんですよ。競争に勝つか負けるかということだけではなくて、物事を見る視点を増やしていく以外考えられない」
劣等感は、多くの価値の中の一つを「唯一の価値」と思い込んでしまうことから生まれる。マラソンであれ、弁論であれ、受験であれ――それが多くの価値の中の一つに過ぎないと本人が思えれば、そこから抜けられる。
そのために必要なのは、「優越する必要を感じない人と接すること」だと加藤氏は言う。全く違った世界の人と接すれば、自分が客観的に見えてくる。
しかし、現実には簡単ではない。エリートの世界にいると、「あんな人と付き合ってはダメ」「あいつは人間じゃない人間と付き合っている」と周囲から圧力がかかる。
だからこそ加藤氏は、若い頃から複数のコミュニティに属し、リラックスできる場所と人を持っておくことの重要性を説く。
「受験地獄にいる時は、その世界と違った世界にいる人だけがリラックスできる。リラックスできる場所、リラックスできる人と接する人だけが、自分自身でいられるんです」
自分を好きでいるためには、視野を広げること、そして比べる対象を「他人」ではなく「過去の自分」に置くこと。さらに、親や社会から押し付けられた価値観から自立する精神的な強さが求められる。
「精神的に自立しなければダメ。マラソンが好きじゃないのに、期待されているからと無理を続けて疲れ果てれば、人は自殺してしまう」
競争社会の中で生きる現代人にとって、加藤氏の言葉は重い問いを投げかけている。あなたが今しがみついている「唯一の価値」は、本当に唯一なのか――。
※本記事はYouTube動画を元に編集部で再構成したものです
