3年で年商10億規模に成長させた会社をFーコードに約8億円で売却。港区で浴びるほど飲み遊んだ31歳起業家が、岐阜県の限界集落へ移住を決意。資本主義の頂点を見た先で気づいた「虚無」と、観光で日本を再生する新たな挑戦を語る。
岐阜県飛騨市の山奥。畑の前で待ち合わせたのは、SNSマーケティング支援会社「先読み」を創業し、2年半前にFーコードへ売却した石川優氏(34歳)。X(旧Twitter)では「港区社長、限界集落へ」というアカウント名で発信している。
売却後の2年間、浴びるほど酒を飲み遊び回った後、今年4月に岐阜県飛騨市上岡町(仮称)へ移住。農業や家のリフォームをしながら、地元の人々の悩み相談に乗り、新たな事業の準備を進めている。
石川氏の人生は決して順風満帆ではなかった。10歳前後の頃、父親が不倫・ギャンブル・借金・DV・会社倒産という「フルコンボ」を決め、家庭は崩壊した。
「父親が普通にグーで母親の顔面を殴り、救急車で運ばれることもあった。中学に上がる頃には父はいなくなっていました」
そんな環境でもグレることなく育った。周囲には不良の友人たちもいたが、勉強がやや得意だったため「こいつは将来俺たちを救ってくれるから」と一目置かれていたという。中学までクラブチームで野球に打ち込み、高校では茶髪・パーマ・ピアスでバイトに励んだ。
関西大学に進学後、1年生の冬に起業。しかし最初の会社は連鎖倒産で潰れた。営業代理店として下請けの下請けの下請け状態で事業を回していたが、元請けの倒産により売上が飛んだのだ。
2社目はインフルエンサーマーケティング事業。3人で始めたが、共同経営者の1人が会社の金を横領して飛び、もう1人も事実上飛んだ。
「190cm・100kgのハングレがオフィスに突撃してきて、会社の借金が1000万円あると。残ってるのお前だけだよなと、2時間ほど暴行を受けました。顔以外を蹴られ続け、髪の毛を引っ張られ続けて」
「せめて300万」と交渉し、訪問販売で稼いで返済。最後は気に入られて10万円貸したらそのまま消えてくれたという。
2016年、3度目の起業として後の「先読み」となる会社を創業。コロナ禍でInstagramの運用代行に特化し、社名も先読みに変更した。
運用代行で蓄積したノウハウを元に、個人事業主・インフルエンサー向けのコンサルティング、スクール、ツール販売へ事業を拡大。3年で年商10億円規模まで成長させた。
驚くべきは石川氏の働き方だ。
「週5勤務・1日4時間×3年でM&Aしたんですよ。14時から18時までが僕の仕事の時間。オフィスにも行かない」
大阪本社で自身は東京単独勤務。詰めすぎる性格を自覚し、距離を取ることで社員の成長を促した。資金調達も一切せず、株式は管理部門の一部メンバーに渡した程度のオーナー企業のまま、Fーコードへ売却した。
売却は最初から計画されていた。19歳で起業した時、「30〜35歳で3億以上で売却する」と目標を立てていたのだ。社員全員に売却前提であることを共有しており、「20代でこの規模のM&A経験できることなくね?」とポジティブに捉えられていたという。
目指していたのは「集計5日で年収2000万円」。人材・IT・アジアの3領域でビジネスを経験し、3カ国でM&A経験を積めば、資産運用と経営顧問で実現できると計算していた。売却額は約8億円。手取りで5億円ほどが残り、目標を上回る形で達成した。交渉開始から売却決定まで、わずか2ヶ月のスピード決着だった。
売却後の生活は、まさに絵に描いたような「成功した起業家」の姿だった。
「週7で19時から会食という名のご飯。21時にバーへ行って朝5時まで毎日飲んでました。自分のバーも作って、車もSUVと2シーターのスポーツカーの2台持ち」
資産運用以外は基本働かない。良い車に綺麗な女性を乗せてドライブし、箱根旅行へ。麻布台ヒルズ内見にも行った。子供時代に味わえなかった経験を「渇望していたから消化していた」と振り返る。
仲の良い友人は全員売却経験者で、同じタイミングで会社を売った仲間たちと夢のような日々を過ごしていた。
資本主義の世界で最も劣等感を刺激したのは、意外にも女友達だった。インフルエンサーやブロガーを扱っていた関係で、年齢を重ねるごとに女友達がいわゆる「港区女子」になっていった。
「3ヶ月に1回海外に行っているし、嬉しい大型契約の話をしても『最近こういう会社と仕事しててさ』と返される。見下されている気がして、悔しすぎてエネルギーにしていました」
この悔しさをビジネスのエネルギーに変え、SNSサミットを主催。彼女たちが学びに来たり、自著をストーリーズで自慢の対象として投稿してくれた瞬間、「勝ったぜ」と感じたという。そのタイミングで売却も決まり、人生が一段落した。
転機は、先読みで手掛けた地方創生プロジェクトの失敗だった。
「田舎の人がビジネスができない『おバカさん』に見えていた。SNSマーケティング能力もある俺の言うことを聞かないの?という感覚で接していた。うまくいかなかった時、『俺がイラっとしてその人と喋ってるわ』と気づいて、こわっとなった」
「金持ち」「本がめっちゃ売れている先生」と紹介されることへの違和感。とんでもない嫌な人間になりつつある自分。マインド面の相談をしていた先輩に勧められ、月1回岐阜の現地を訪れるようになり、自分で野菜を植え、責任感と愛着が芽生えた。
当時同棲していた現在の妻に「移住しようかな」と切り出すと「私も田舎に住みたい」と即答。3月31日に港区の物件を解約し、岐阜への移住が決まった。
港区で出会いテキーラとハブ酒を順番に飲み続けていた2人が、今では真逆の生活を送っている。
「人って本質的にはあんまり変わらない。ただ器がでかくなった、価値観が広がった感覚。どっちも行けるようになった」
資本主義の頂点で勝負することをやめ、ブランドものの服も脱いだ。それでも本人は「俺、あんま変わってない」と語る。スピリチュアルな悟りではなく、自分にフィットする生活を選び直しただけだという。
移住先で目指すのは、観光で日本を立て直すこと。19歳の目標設定の時点で「観光を生涯のビジネスにする」と決めていた。
構想する事業は「分散型ホテル」。街全体を一つのホテルと見立て、「この建物は101号室、あの建物は202号室」という形で運営する。アクティビティは農業体験。地元のおばあちゃんもサービススタッフになる。
横展開はフランチャイズ方式。本部はマーケティングと採用支援を担い、加盟店を含めた利益の一部を各自治体のNPOや財団法人に流す。「経済寄りの民主主義」という設計で、医師の不足する地域には財団から補助を出すなど、町に資金を還流させる仕組みだ。
「自分は日本全国のオーナーじゃなくて、飛騨のオーナーでいい。各地で観光を頑張るオーナーが年に1回ここに集まって『発祥の地だね』と酒を飲めたらいい」
最後に、若手起業家へのアドバイスを聞いた。
「ビジネスの大原則は、困りごとや『より良くしたい』と思っている人に対して、自分が持っているものを少し分け与えること。目の前の人に最大限のリスペクトと感謝を持って接することが、ビジネスの一番の根っこ。そこがブレなければ不幸な道には行かない」
マーケットの読み方については、第1層が走り出して伸び始めるタイミングを「2番手戦」で取りに行く戦略を明かした。先読みでは事業開始の1年前から「インスタ運用」関連のブログを密かに作り、検索クエリと順位データを取り続けていたという。検索ボリュームの角度が急に上がり始めた瞬間に「来た」と判断し、本格参入。「勝つべくして勝った」と自己分析する。
限界集落での生活で気づいた真理がある。
「お金が必要ということは、できないということ。お金をたくさん必要とすることは、無力の象徴である」
水は湧き水を汲み、テーブルの天板は知り合いから無料でもらう。野菜は自分で育て、ご近所からはお裾分けが届く。スーパーで声をかけられる頻度も東京より多い。
資本主義の頂点を見た起業家が辿り着いた「もう一つの幸せ」は、お金が介在しない循環の中にあった。それでも彼は再び事業を立ち上げ、観光で日本を再起動するという長大な夢に向かって歩き始めている。
※本記事はYouTube動画を元に編集部で再構成したものです
